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謎のカブレラストーンを見に行く

 2013-03-04
 
 地上絵で有名なナスカの隣にイカという街があります。ここに、オーパーツ(古代の技術や知識では製造が不可能な遺物)として有名なカブレラストーンというものがあります。以前、日本のテレビ番組でとりあげられたことで日本でも知られるようになり、関連書籍も何冊か出版されています。今回は、このカブレラストーンを見に行くことにします。

 カブレラというのは、イカで内科医をやっていたハビエル・カブレラさんのことです。この人は、先住民が発見したという表面に様々な絵が描かれた石を収集し、それらの絵が恐竜時代に人間がいたことや、宇宙人が地球に来ていたことを示していると主張したのです。

 なんだか眉唾的な話ですが、ペルーに詳しい人が「面白いので行って見よう」というので、暇だったこともあり、イカまで行ってみることにしました。

 イカまでリマから300㎞以上あります。こちらのバスは制限速度が90㎞/hとなっており、リマ市内から片道5時間近くかかります。それを日帰りで行くのですから、朝早く出なければいけないということで6時半の長距離バスに乗りました。

 ペルーの長距離バスはたいていが2階建てです。これまでもよく利用しましたが、今回初めて2階の一番前の席が取れたのです。数日前、オンボロバスでパチャカマックに行ったのと同じ道をバスは走ります。その時とは違って、見晴らしのいい席で、快調に走るバスを楽しみました。約4時間半でイカに到着。途中、停まらないバスなので早かったのです。

 カブレラストーンがある博物館は町の中心であるプラサ・デ・アルマスに面した建物にあります。普段はあまり訪れる人もいないため、いつ開いているのかわかりません。行って、閉館中だったら困りますので、事前に電話で確かめておきました。

カブレラ博物館
カブレラストーンの博物館


 博物館に行くと、すぐに中年の女性が出迎えてくれました。カブレラ博士の家族かもしれません。女性は、博士の肖像画が掛けられ、たくさんの石が並べられた書斎らしき場所に招き入れてくれました。そして、カブレラ博士が最初に手に入れたという石を見せてくれたのです。

カブレラ書斎
カブレラ博士の書斎


 そこには魚の絵が線画で彫られていました。カブレラ博士はこの線画を見てただものではないと感じたわけです。そこからカブレラストーンが世界を騒がすオーパーツとなったことを考えると、感慨深いものがあります。ただ、私には、子供が描いたような、たただの魚の絵にしか見えません。

カブレラ石1
最初のカブレラストーン


 そこから、女性の怒涛の説明が始まりました。石に描かれているあり得ない絵の説明は、次第にナスカの地上絵との関連に移り、地上絵は宇宙船が発着する場所だったこと、宇宙船の飛行は磁力によって行われており、その証拠に、磁力を持った石が地上絵の場所からは発見されていると言います。その、磁力でくっついている黒い石も見せてくれました。

カブレラUFO説明
宇宙船の発着方法を説明する図


 ひとしきり説明が終わると、「次は倉庫を見せてやる」と言います。そこで、部屋から外の通りに出ました。その時、どうしてこんな街のど真ん中のいい場所に家があるのか聞くと、「カブレラ家は町の創設者の子孫だからもともとこの場所に家を持っていたのだ」と言います。そして、「昔は今よりもっと大きな家を持っていたんだ」と誇らしげに顔を輝かせました。

 カブレラ博士は、医者であるだけでなく、この街の大変な名士だったわけです。科学的見識も十分に持っていたであろう、そんな人が、いい加減な石をせっせと集めるのはおかしな話です。この石には何か特別な秘密があると考えてもおかしくはないのですが・・・・どうもわかりません。

 倉庫は、書斎がある部屋のすぐ隣にありました。厳重にかけられたカギを外して狭い倉庫の中に入ると、大量の石が所狭しと置かれています。大きいのから小さいのまで、その数は全部で1万5000個もあると言います。

カブレラ倉庫
所狭しと並べられた石など


 その石の表面には様々な絵が描かれているのですが、多いのは恐竜の絵と手術の場面です。カブレラ博士は、この石の年代測定をした結果、1万2000年以上前に製作されたと主張しています。仮にこの年代が本当だとしても、恐竜は6500万年も前に絶滅していますので、その時代の人が恐竜を描けるはずはありません。

カブレラ手術
手術の様子を描いた石



 手術に関しては、脳外科手術を古代人が行っていたということが明らかになっていますので、絶対ないとは言い切れませんが、絵を見る限り、そんなに信憑性があるとは思えません。

 いろんな絵が描かれた、たくさんの石があって面白いのですが、見れば見るほど、あまり絵がうまくない人がおぼつかない手つきで描いた線画としか思えなくなります。

 古代の人が描いた絵は、洞窟壁画などが残されていますが、やはり本物は違うのです。絵が好きな人ならある程度理解できると思いますが、小銭稼ぎの土産物として描かれた絵と、ある情熱の発露として描かれた絵では、見る人がそこから受ける感情が全然違います。残念ながら、この石の絵からは古代人の真剣さや情熱は全く伝わってきません。

カブレラ説明
一生懸命説明してくれた女性


 ここまでやって来たのに、ちょっと残念な結果でした。しかし、信憑性はともかく、こういうものを頭から否定するのではなく、それなりに楽しむというのも大切ではないかと思います。

 この後、私たちはイカ最大の観光地、アメリカのオアシスと呼ばれるワカチナに行きました。ここは砂漠の中に湖があって、ヤシの木陰で涼む人や湖でボート遊びなどをする人が大勢います。まさに、砂漠のリゾート。ここが南米ということを忘れそうです。

イカワカチナ
ワカチナの湖


 私たちは、湖畔のレストランに入り、名物のアスパラガスのセビッチェをつまみに冷たい黒ビールを飲みました。そのうまさは格別でした。

 この1カ月間、トラブルにあったり、病気になったり、いろいろとあったペルー旅行でしたが、最後がよければ全てよしという感じで、ほろ酔い気分も手伝って、この上ない幸福感に包まれました。




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リマ郊外にあるパチャカマック神殿を訪問する

 2013-02-27
 クスコからリマに戻って来ました。寒くて雨ばかり降っていたクスコと違い、リマは夏の盛りで、毎日晴天続きです。日中は暑いのですが、それでも日本に夏ほど暑くはありませんし、砂漠性気候のため日陰は涼しいため、非常に過ごしやすいのです。

IMGP0872.jpg
リマ市内の通り


 さて、リマ周辺の大きな遺跡と言うと街の南部に位置するパチャカマック神殿があります。パチャカマックというのはケチュア語で「大地の創造者」という意味だそうで、この地を征服したインカがずっと昔からあった大規模宗教施設につけた名前です。この神殿の起源は、西暦200年ころまで遡り、この地に栄えたリマ文化、ワリ文化、イチマ文化などを通して伝統は継承されてきました。それを、インカも受け継いで存続させたのですが、次にやって来たスペイン人によって滅ばされたということです。

 私は25年前にこの遺跡に行ったことがあるのですが、その時は4人ほどでタクシーをチャーターして行きました。今回は一人なのでタクシーは無理です。そこで詳しい人に行き方を聞いたところ、「宿の前の道をバスが通るからそれに乗ればいいよ」と、こともなげに言うのです。

 しかし、パチャカマック神殿はリマ市の南方30㎞のところにあるのです。まさか、そんな遠方に行くバスが住宅街の通り、しかも広いリマの中で、都合よく目の前の通りを走っているとは信じられませんでした。そこで、さらに詳しく聞いてみると、リマのバスというのは市内をあちこち回りながら、かなりの遠距離を走るそうで、やたらと時間はかかるけど、とにかく我慢して乗っていればやがてはパチャカマックまで行くということでした。

 「それなら行ってみよう」ということで、宿の前の道に立ってパチャカマックまで行くバスが通るのを待ちました。何台かのバスが行き過ぎ、やがてパチャカマック方面行きのルート番号が書かれたオンボロ中型バスがやってきました。市内を走るバスはやたら混むのですが、私が立っていたのは始発に近い場所だったため、結構空いていました。しかし、10分もするとバスは満員になっていました。そこからも人が乗る一方で、降りようとすると大変な状態です。

 40分もすると硬い椅子にお尻が痛くなりましたが、ぎゅう詰めの車内で座ることもできず、額に脂汗をにじませて我慢している人たちを見ると、座われていることだけでもラッキーと思うしかありません。バスはどこかわからない街をずんずんと走り続けます。

 そんな状態で約2時間。バスはやがて高速道路を走り、パンアメリカンハイウエイの旧道らしき道に入りました。そろそろだと思った私は、乗客をかき分けて運転席に行き、「パチャカマック遺跡はまだ?」と聞きました。すると、運転手が「ここだよ」と言います。ちょうどいい具合に遺跡の前に着いたのです。

パチャカマ入り口
パチャカマック入り口の博物館


 バスを降りると、目の前に遺跡の門と博物館に続く道がありました。中に入ると、まず博物館を見た後に遺跡に移動するようになっています。ただ、容赦なく太陽が照りつける広い漠の中の遺跡ですから、水は必需品です。私は売店でミネラルウオーターを1本買って遺跡に続く道を歩きだしました。

 しかし、歩いて遺跡を見に行く人はほとんどいません。みんな、ツアーのバスや自家用車で来ていて、汗をかきながら砂漠の中の道を歩く私の横を、通り過ぎていきます。

 まず、入り口から最も近い所に、Conjunto Adobitos(小さな日干しレンガの遺跡群)という遺構があります。これは、この神殿で最も古い時代であるリマ文化のものだということですが、アドベ作りの建物の跡しかありません。

 次にはAcllawasi(アクリャワシ)と呼ばれる「聖なる乙女の館」があります。ここは神に仕える女性たちが住んでいて、インカの神にささげる酒や食べ物を作ったり、織物を織ったりしていたということです。以前来た時も、この建物を見た記憶があります。当時はまだ発掘はあまり進んでおらず、印象的な建築物は少なかったのでしょう、その他のことは全く覚えていません。

パチャカマ乙女
聖なる乙女の館


 ここから、遺跡を時計回りに巡る順路になっています。茶色い土の山の連なりの中に、アドベ(日干しレンガ)作りの建築物があちらこちらに顔を出しているのが見えますが、ほとんど崩れた状態にあるため、どうなっているのかよくわかりません。

 そこから10分弱歩いたところにあるのがPirámide con Rampaという構築物です。傾斜路のあるピラミッドと訳しますが、その名の通りピラミッド型の建物に上るための傾斜路が付けられています。これは、パチャカマックが最盛期を迎えたイチマ文化の時代に作られたということです。

パチャカマ傾斜路
傾斜路のあるピラミッド


 そこからさらに進んだところで、私は遺跡に近づいて写真を撮ろうとしました。すると、ピラミッドの頂上に立っていた監視員が「ピーッ」と笛を吹いたのです。遺跡巡りは決められた順路の上だけを歩けということです。「わかりましたよ」ということで、道に戻り先に進みました。

パチャカマ監視員
ピラミッドの上で見ている監視員


 そこからは砂漠に半分埋もれた様々な建築物の周りを歩くのですが、基本的に同じような景色が続きます。歩く距離も長く、太陽の日差しもきついのでかなり疲れます。

 やがて、左側にかなり規模の大きな建築物が見えてきます。まず、大きな土の山が現れるのですが、よく見ると山腹にたくさんのアドベが積まれているのが見えます。これはTemplo Viejo(古い神殿)と呼ばれる建築物です。その横にあるのがTemplo Pintado(彩色された神殿)、別名パチャカマック神殿です。

 この神殿からは赤などで彩色されたり、魚、鳥などが描かれた壁が見つかっているそうです。この壁面を風雨から守るために、建物の一部には屋根や囲いが設けられています。しかし、道路を外れて遺跡に近づくことができないため、その壁を見ることはできないのです。これは残念なことです。

パチャカマ神殿
パチャカマック神殿


 ちなみに、この神殿からは地震の神と考えられているパチャカマック神の木像が発見されているそうで、ここがパチャカマック信仰の中心地と考えられます。

 このパチャカマック神殿の後ろに小高い丘が聳え、その上に立派な神殿が作られています。これがTemplo del Sol(太陽の神殿)です。その名前からもインカのものというのがわかります。

パチャカマ太陽の神殿
太陽の神殿


 1400年代の中ごろ、ペルーの海岸地方を支配下に置いたインカは、この地方の人々のパチャカマックへの信仰を禁止するのではなく、一定の条件下で認めるようにしました。つまり、インカの太陽神の神殿をパチャカマック神殿を見下ろす場所に建設し、人々にパチャカマックだけでなく太陽神も崇めるようにさせたというわけです。

 パチャカマック神殿から道は太陽の神殿に向かって上り坂になります。それまでは車で回れたのが、ここから先は歩いていかなくてはなりません。そのため、この辺には大勢の観光客が歩いています。私は彼らの後をついて、ゆっくりと坂道を上りました。

 太陽の神殿も遠くから見るとかっこいいのですが、近づくと泥と石の壁ばかりですから、それほど見応えのある遺跡ではありません。

パチャカマ太陽の神殿上部
太陽の神殿の上部はインカらしく切り石を使って壁を作っている



 ただ、最頂部に上ると、その先に太平洋が一望できるのです。驚いたことに、ここに立つと風が冷たく、寒さを感じるほどなのです。真昼なのに、海の先が霧に霞んでいて、その霧が陸地に向けて押し寄せてきています。その霧が、陸地の景色も覆い隠すのですが、間もなく強烈な太陽の日差しによって消えていきます。

パチャカマ海岸
太陽の神殿の上から見た光景。海には霧がわいている


 ここは南極から流れてくるフンボルト海流が暖流とぶつかって霧を発生させる場所です。冷たい海の水から発生する霧を風が運ぶため、風がヒンヤリしていて気持ちいいのです。観光客は遺跡よりそこからの眺めが気に入ったようで、海をバックに写真を撮る人が大勢いました。

 遺跡見学はこの太陽の神殿で終わりです。ほとんど修復されていない壮大な廃墟のような遺跡ですから、見どころがあまりないのが残念です。太陽の神殿も悪くないのですが、遺跡としての魅力には乏しいと思います。ただ、遺跡だけでなく、広い砂漠の光景やその中にある不気味な雰囲気の街、そして冷たい霧を発生させている太平洋など、見て面白いところは結構あるという感じです。

 ところで、リマには市内の観光地を巡る2階建て観光バス「Mirabus」があるのですが、このバスツアーの一つに「パチャカマック神殿ツアー」というのがあります。料金は3000円弱ぐらい。これに乗れば屋根なし2階建てバスに乗って楽に遺跡巡りができます。


 次はペルー旅行の最終回、イカにある謎のカブレラストーンです。



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聖なる谷のチンチェーロ村と遺跡を散歩する

 2013-02-25
 これまで聖なる谷を代表する三遺跡のうち、ピサックとオリャンタイタンボを紹介しましたが、今回は最後のチンチェーロです。

 聖なる谷の見どころとしては、この他、マラスの塩田とインカの農業試験場というモライがあるのですが、今回は予想外の体調不良に見舞われたため、行くのは見合わせることにしました。特に、マラス塩田は白く輝く棚田が魅力なのですが、雨季には塩の採取は行われず、茶色になってしまっているということで、行く気が失せました。

 チンチェーロ村はクスコからバスで40分ほどのところにあり、オリャンタイタンボあるいはウルバンバ行きのバスが停まります。3日前にオリャンタイタンボからコレクティーボで帰ってきたのですが、全く同じルートをバスでたどることになりました。

 クスコを出て40分、バスは頻繁に停まって乗客が乗り降りします。同じ村の中でも4カ所くらい停まりますので、どこで降りたらいいのかよくわからないのです。そこで、車掌に「チンチェーロ遺跡で降りる」と言うと、「分かった」というように頷きます。

 そして、チンチェーロ村につきましたが、車掌は「まだまだ」と言います。村に入って3回ほど停車した後、ようやく「ここだ」というのでバスを降りました。ペルー人の学生らしき二人連れも降りて歩いていくので、その後を追うように歩きました。

入り口
チンチェーロ村の入り口に立つ先住民女性のモニュメント


 村から少し坂を上ると、係員がいて「入場券を見せろ」と言います。周遊入場券を見せると、「まっすぐ行って左に曲がれ」と言うのです。「そうか」と思って歩いて行ったのですが、どこを左に曲がるか分かりません。「まあいいか」と思い、まっすぐ歩いていくと、チンチェーロの村の奥にどんどん入って行きます。豚や羊があちこちで遊んでいて、村人が時々顔を出して「ブエノス・ディアス(おはよう)」と言うので、私も挨拶を返しました。

 村の人が観光客慣れしているということでしょう。一般的な地方の村に外国人が入って行くと、ほとんどの場合警戒されてしまいますし、こちらも迷惑にならないように気を使うのですが、この村では観光客がいるのは当たり前という感じで、若い人から老婆まで挨拶してくれるのです。これは気分がいいもので、私は鼻歌気分でどんどん歩いていきました。

村
村は丘の斜面にある


 のんびりした典型的なペルーの山村で、風景は素晴らしいのですが、動物がいたる所にいるため、獣臭くてたまりません。しかも、道は泥んこで、豚は嬉しそうに転げまわっていますが、私のトレッキングシューズは泥まみれになっています。

 山を登りすぎて家もなくなり、これは道が違うと思って、坂を下りました。遺跡は村の中心にある教会のところにあります。そこには鐘楼の塔が立っているのは知っていたので、高いところから見ればわかると思ったのですが、そんなものは見えません。しかし、小さな村ですから適当に歩けば教会にぶつかるはずと思って歩いていると、間もなく教会の上の方に出ました。

 チンチェーロ村の遺跡はオリャンタイタンボやピサックと違って村と一体になっています。そのため、入場者をコントロールする場所が村内に複数あり、観光客は教会周辺の村に入るにも入場券が必要になるようです。

 教会は村はずれの丘の中腹にあります。ここには元々インカの大規模な都市があり、スペイン人はインカの建物を壊して、その石垣の上に教会を建てたのです。
 
石垣
今も残るインカの神殿跡の石組

 
 教会の周囲には、写真のように神殿らしい緻密な作りの石垣が残っています。オジャンタイタンボやクスコの石垣にはかないませんが、白壁のコロニアル様式の建物とマッチして歴史を刻み込んだ風情を醸し出しています。日曜日は教会前の広場に大勢の物売りが店を広げるようですが、この日は数人の先住民の女性たちがいるだけで、非常に静かでした。
 観光客はにぎやかな場所を好むのでしょうが、私は静かで、住民の日常生活が見られる場所の方が好きです。

 インカの神殿があった教会の北側には広場があり、その北側は谷を挟んで向かいにある緑豊かな丘を望みます。東には階段状の石垣があり、そこには自然石を加工した観覧席のようなものが作られています。地元の人は、インカの支配者が広場で行われる行事を見るために作られた椅子だと言っていました。

チンチェロ椅子
自然石で作られた支配者の椅子?


 インカの人たちは、こうした自然石を特別なものとして扱ったようですから、その可能性は高いでしょう。その石の椅子をみると、広場に展開するスペクタクルと、広場に面して設けられた長い石垣の上に並んで見物をしている観客たちを見下ろしていた支配者が想像できます。

 この石には観光客が触れないようにロープが張ってあるのですが、この時、地元の農民と言う年配の男性が来て、石に上ってしまったのです。そして、私に「ここにプーマがいるから上って来い」と言います。どうやら椅子のところにピューマの彫刻があるようなのです。しかし、立ち入り禁止区域ですから、私がためらっていると、遺跡の監視員が来てそのおじさんを呼びました。
 
 監視員から「あんた何なの? ガイドなの?」と詰問調で聞かれたため、おじさんは不快そうな顔になりました。後で、私が「何を言われたの?」と聞くと、「何でもねえよ!!」と言います。「やーい、怒られた」とからかおうとしましたが、言い方がわかりません。するとおじさんが「もっと凄いのを見せてやるよ」と言って歩きだしました。

だんだん畑
インカの段々畑


 後をついていくと、広場の東側に広がる段々畑の下の方に歩いていきます。そこには大きな自然石があり、一目で、サクサイワマンの近くにあるケンコーと同じだと思いました。ケンコーは巨大な自然石を加工して宗教儀式を行う場所にしたものですが、ここの岩も同じように様々な加工がしてあります。中をくりぬいて人が通れるような道を作り、表面を削って椅子のようなものも作っています。

巨石
上から見た巨石。通路も作ってある。


 「ここのことは観光ガイドも知らないよ」とおじさんは得意気に言います。これだけの場所をガイドが知らないとは思えませんが、実際にここまで客を案内するガイドはいないのでしょう。ツアーでは、せいぜい教会と広場までしか見ないのだと思います。

おやじ
巨石に腰かけたおじさん


 おじさんのおかげでいいものが見れたと感謝しながら広場に戻ると、雨が降り出しました。広場にいた物売りの女性たちはあわてて商品をしまって、建物の軒下や石垣のくぼみに避難します。私も軒下に隠れたのですが、雨が強くなったために、近くの土産物屋に入りました。最初、店の主人は土産を売りつけようと一生懸命でしたが、私に買う気がないと分かると、世間話を始めました。

 二人で日本とペルーの比較をあれこれしていると30分ほどして雨がやみました。店を出ようとした私に「気を付けていい旅行しなよ」と主人は声を掛けてくれました。「ありがとう」と言って外に出ると、坂道の向こうに雨上がりの美しい田園風景が広がっていました。

 濡れた街路では民族衣装を着た女性たちが、まだ雨宿りをしています。物音さえほとんどしない雨上がりの夕刻、そこには、何物にもとらわれない、ゆったりとした時間が流れていました。私は深呼吸をしてから坂道をゆっくりと降り始めました。「この村に、いつかまた来たいな」と思いながら。

遠景
チンチェーロ遺跡と村の遠景


 次はパチャカマ神殿へ向かいます。



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知られざる巨大遺跡オリャンタイタンボを訪ねる

 2013-02-22
 クスコの北に広がる「インカの聖なる谷」の中に点在するインカの遺跡の中で最大のものがオリャンタイタンボです。

 規模でも、質でも、マチュピチュを凌ぐ遺跡にも関わらず、以前はほとんど訪れる人がいない場所でした。ところが、聖なる谷の開発と数年前に起きた土砂崩れによるマチュピチュ鉄道の路線変更がオリャンタイタンボを多くの人が訪れる観光地に変えました。

オリャンタイタンボ1
谷間に広がるオリャンタイタンボ村


 以前のマチュピチュ鉄道はクスコ市内の駅から出発していたのですが、土砂崩れが起きてからは、多くの列車がオリャンタイタンボ駅からの出発に変わりました。このため、ツアー旅行では、オリャンタイタンボや周辺の町に宿泊し、この遺跡も見学コースに入れるようになったのです。

 私にとって25年振りのオリャンタイタンボです。「ここは以前とは大きく変わった」と聞きましたが、それはクスコ周辺はどこも同じです。

 クスコからコレクティーボ(乗り合い自動車)を利用して、約1時間半でオリャンタイタンボに着きます。ミニバンのコレクティーボは猛スピードで聖なる谷の曲がりくねった道路を走り抜けます。無理な追い越しをする時は恐ろしくなりますが、運転手は平気な顔です。心の中で「事故が起きませんように」と祈りながら、任せるしかありません。

 無事オリャンタイタンボに着き、ホテルを探しました。以前は数少ない車が時折通るだけの僻地の村で、中央広場には先住民の女性が営む土壁の食堂が1軒あっただけでした。しかし、今は広場にはツアーの車や観光バスが列をなし、その横を大勢の観光客がゾロゾロと歩いています。広場の周囲はレストランだらけで、店の前に置かれたテーブルでは白人の旅行者達がビールを飲みながら談笑していたりします。

 私は灼けるような日差しのせいもあって疲労を覚え、近くのホテルに入り部屋があるか尋ねました。すると「水がないから泊めることはできない」と言うのです。そこで「水がないのはこのホテルだけか、村全体か?」と聞くと、「村全体だ」と答えるのです。

 聞くと「昨日の大雨で村の橋と水道管が壊れてしまったため当分水は来ない」というのです。近くの川は雨量が増えたせいで轟々と水が流れているのに、村は水不足で干上がっていたというわけです。ここであきらめて、別の村に行けば良かったのですが、「水がなくてもいいから泊めてくれ」と言ってしまいました。これが大きな失敗でした。

 ホテルに荷物を置き、すぐ近くにあるオリャンタイタンボ遺跡に向かいました。山の斜面に作られた巨大な遺跡は遠目には以前とほとんど変わりません。しかし、遺跡に行く道筋には土産物屋が立ち並び、遺跡の入り口は立派な建物になっています。

 遺跡に入ると、大勢の観光客でどこも写真撮影の嵐です。私はできるだけ人が少ない場所を選んで歩きましたが、急な山の斜面に作られた広大な遺跡にも関わらず、人がいないところはほとんどありません。

オリャンタイタンボ2
夕方になり、遺跡の中にいる人がかなり減った状態。

 この遺跡の見所は、インカの石加工技術の凄さです。「石をまるで豆腐のように切る」と表現した人がいますが、大きな石を自在に切っているところを見ると、感嘆します。また、インカが得意とする石組みの技術を用いた城壁はクスコの有名な石垣に劣らない素晴らしいものです。

オリャンタイタンボ4
隙間なく組み合わされた美しい石垣


 そして、ハイライトは山の上に置かれた巨石の石組みです。四角に切った6つの巨石の間に薄い石の板を挟み込んで巨大な石壁に仕上げているのですが、この石はこの山のものではなく、かなり離れた対岸の山から切り出してここまで運び上げたそうです。

オリャンタイタンボ3
巨大な石を組み合わせた神殿の壁


 エジプトのピラミッドのような形で大きな石を運ぶことは古代でも可能だったでしょう。しかし、オリャンタイタンボは急な山の斜面にある上、いくつかの石は一つ100トン以上もあるそうです。鉄を知らなかった文明が、そんな重い石をどうやってここまで引きずり上げたのか大きな謎です。

 こんなに素晴らしいものがここにあるのは、インカにとってオリャンタイタンボは非常に重要な拠点都市だったっからです。スペイン人と武力衝突した後クスコから脱出したインカ皇帝マンコ・インカも、当初ここに立てこもりました。

 こうした石組みや巨石は興味を持ってみると凄く面白いのですが、ほとんどの人はあまり気にもとめていないようで、みんな、景色の良い場所で記念写真を撮るのに夢中です。私は写真を撮るために人が減るのを待ちましたが、観光客は列をなして山を登り途切れることはありません。

 これを見ていると、マチュピチュはもっと凄いだろうなと思います。折しも、アンデスの山岳部は雨季で連日かなりの量の雨が降りました。その雨が川に流れ込みマチュピチュ周辺の水かさが異常に増していました。このため、管理当局がマチュピチュに観光客を入れるのは危険と判断し二日間入場停止になったのです。つまり、翌日の開場を待ってマチュピチュを目指す観光客がオリャンタイタンボに溢れていたというわけです。

 遠くからやってきた観光客が必死でマチュピチュを目指すのは当然ですが、大勢の観光客を見た私はまったく行く気がなくなりました。それより、オリャンタイタンボを楽しんで帰ろうと、観光客が減る6時ころまで山の上に留まって、美しい周囲の景色の変化を楽しみました。

オリャンタイタンボ5
オリャンタ村の路地を奥に入った所。この辺は今でも昔の風情を守っている。


 問題はここからでした。ホテルに帰ると水が出ませんからトイレが流れないのです。もちろん、村中、どこのトイレもだめです。遺跡の公衆便所も使用停止ですから、大勢の女性たちは青くなっていました。

 私は適当な場所で用を足してレストランに夕食に出かけました。名物の鱒料理を食べたのですが、鱒が少し生臭く感じたのです。

 翌朝、起きたら体がだるいのです。そして下痢が始まりました。流れないトイレと下痢の組み合わせは最悪です。下痢止め薬を飲んだ私は、全ての予定をキャンセルし、急いでクスコに戻りました。体がふらつき、帰りの車中はほとんど意識朦朧としていました。

 とんでもないことになりましたが、食あたりはそれほどひどくなく、丸一日寝たら元気になりました。それには宿泊していた日本人のペンションでお粥や梅干しを用意してくれたお陰が大きいのです。やっぱり、困ったときは日本人と日本食ですね。

 
 次はチンチェロ遺跡に向かいます。



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クスコの南の谷にあるマイナーな二遺跡を訪ねる

 2013-02-20
 今回はクスコの南に位置する二つの遺跡、ピキヤクタとティポンに行きます。
 この方面に行くツアーもあるのですが、あまり行く人はいないようで、非常にマイナーな遺跡です。

 いつも通り、私は地元のバスで行くことにしましたが、問題はどこで降りたらいいか分からないことです。とにかく、遺跡がある方向に走るバスを見つけ、車掌に「ピキヤクタ遺跡に行きたい」と言うと、「ピキヤクタは止まらない」というようなことを言います。そこで「その近くの村でいいんだ」と言うと、「そうか・・・」と、なにか気が乗らない様子です。

 それでも、私は気にせず、バスが走るに任せました。こういう時に重要なのは、車掌や運転手に行きたい場所を言うだけでなく、周囲の人に聞こえるように話すことです。

 それは、時々、旅行者の言うことを無視する運転手がいるからです。そんな時、周りの乗客が降りる場所を知っていると教えてくれます。この時もそうでした。

 隣に座った若い男性が「ピキヤクタ遺跡はここだよ、降りなよ」と言って、運転手に「降りる人がいるよ」と怒鳴ってくれました。私は、道路沿いに遺跡があるとは思っていなかったのでビックリです。

 満員の乗客をかき分けて出口に行くと、車掌が「本当に降りるの?」と言います。何言ってんだ降りるに決まっているだろと思って「シー!(はい)」と強く言うと、「ここは止まれないから少し待て」と言います。ようやくバスが止まったのは遺跡から1kmほど離れた場所でした。

 遺跡にバスが止まれなかったわけではありません。なぜなら帰りのバスは遺跡の前に止まったからです。どうも、運転手は快調に走れる道路ではできるだけ止まりたくないようです。地元の人にはそれができませんが、旅行者なら分からないのでとぼけて走ってしまうのです。

 それから、炎天下の道路を20分ほど歩き、ようやく道路沿いにある遺跡に着きました。しかし、ここはピキヤクタとは少し違う遺跡だったのです。ピキヤクタはインカより前のワリ文化の遺跡ですが、ここにあるのはインカ時代の水道橋でした。それはそれで面白い遺構なのですが、実際のピキヤクタ遺跡はそこから歩いて20分ほど山側に入った場所にあります。

ピキヤクタ水道
ピキヤクタ遺跡のそばにあるインカの水道橋跡


 また炎天下を歩き続け、ようやく遺跡の入り口にたどり着いたときはクタクタでした。管理棟で遺跡周遊入場券を見せると、係員が「博物館も見ていきなさい」と言います。部屋の中の方が涼しいので中に入ると、大きな動物の化石が展示してあります。それは古代にこの辺に棲んでいた巨大なアルマジロの骨格と甲羅でした。「こんなのがこの辺にいたのねー・・」と言う感じで遺跡とは違う面白さがありました。 

ピキヤクタ巨大アルマジロ
巨大アルマジロの化石

 さて、ピキヤキクタ遺跡ですが、非常に規模が大きい古代都市の跡で、全体的に見ると「ほおー」と思います。巨大な都市全体が泥壁の城壁で囲まれており、さらに内部には泥壁に挟まれた通路が延々とつながっています。山と泥壁の通路の組み合わせは、まるで小さな万里の長城のようにも見えます。

ピキヤクタ
泥壁に囲まれた広いピキヤクタ遺跡


 ただ、住居跡など個別の建築物も壁はすべて同じ作りです。大きい小さいの違いはありますが、基本的に同じ、壊れた壁が無数に立ち並んでいるだけです。観光客はたまにやってくるだけで、広い遺跡の中に人はほとんどおらず、ただ黄色の花が咲き乱れ、蜂や鳥が自由に飛び回っているだけです。

 疲れもあって、私は遺跡に腰を下ろしボーっと周囲の美しい光景に見とれていました。そこに一人の男の人が通り「やあ、いい天気だね」と言うので、「そうですね。でも暑くて仕方ない」と言うと、笑って行ってしまいました。

ピキヤクタ通路
ピキヤクタ遺跡の長い通路


 泥壁と草花だけの遺跡。「まあ、こんなのが普通だよね」と思いながら、またバスが通る道路に向けて歩き出しました。「帰りのバスをつかまえるのは大変だろうな」と思いながら道路まで来ると、ちょうど帰りのバスが来ました。手を上げるとすぐ止まってくれたのです。あまりの簡単さに拍子抜けでした。

 次は少しクスコ方面に戻りティポン遺跡に向かいます。バスの車掌に「ティポンで降りたいんだけど」と言うと、こんどは親切に「分かった、着いたら教えてあげるよ」と言ってくれました。そして、15分ほどでティポンに着き、車掌が「ここだよ」と言うのでバスを降りました。

 喉が渇いていたのですが、タクシーの運転手が声をかけてきて「遺跡でも飲み物を売っているからすぐ行こう」と言います。少し不安を感じながらタクシーに揺られました。

 ティポン遺跡はバス道路から車で15分ほど山を登った場所にあります。山中のジグザグ道路を走り抜けたタクシーは遺跡の前に止まりました。運転手が「帰りまで待っていてやろうか?」と言います。「いくら?」と聞くと、帰りの10ソレスに待ち時間の5ソレスを加えた15ソレス(約600円)と言います。私は即座に断りました。

 待たれていると遺跡見学に制約ができるし、帰りは何とかなる、最悪歩いてもいいと思ったからです。それから、不安が現実になりました。遺跡の係員に「飲み物はどこで売ってるの?」と聞くと、「ここでは売ってないよ」と言うのです。「運転手にだまされた」と思いましたがもう遅かったのです。

 喉の渇きを我慢して遺跡に入りました。ティポンはインカの農業試験場のような場所だったということです。谷あいの地形を利用して段々畑を作ってあり、豊かな水に潤された棚畑は、今は作物は作っていませんが芝生の緑に覆われています。殺伐としたピキヤクタとは違い潤いがある美しい田園風景です。

ティポン
ティポン遺跡の風景

 その景色の美しさからか、こちらには観光客や地元の若者達が意外に大勢います。ただ、こちらも大規模に整備された段々畑ですので、遺跡としての面白味には欠けます。潅漑用水路や神殿跡などはありますが、それほど凝った作りではなく、すぐ見終わってしまいます。

 日本で言えば、良く整備された大規模な城址公園という感じです。地元の若者達のカップルが緑の芝生に寝転がってイチャツいているそばで、私はのどの渇きを我慢しながら潤いがある人工の景色を楽しみました。 

 帰りは下まで歩く覚悟で自動車道路を歩いていました。すると、すぐ乗合自動車がやってきて乗せてくれたのです。料金はバス道路までわずか1ソル(40円)でした。

 遺跡としては今一つ感が残りましたが、二つとも周囲の景色が非常に良く、時間があったら訪れて見ても損はない遺跡だと思います。何より、人が少ないというのはいいことです。


 次はオリャンタイタンボ遺跡に向かいます。



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